「なんこうさん物語~湊川神社から見た神戸の近現代~(第2部)」第88話
芦屋・大楠公戦跡碑
★大楠公戦跡碑建立募金 土地(130坪)は斎藤幾太(1859~1938)提供し、建立費は住民募金7600円であることはすでに書いた。
読者の芦屋市在住・若林伸和様が、「募金額は3000円」と教えて下さった。精道村村長の紙谷文次が「教化三団体の協力を求め」「三千円の募金を得て昭和十年二月十一日」に記念碑が建立された(今泉三郎『芦屋物語』(昭和48年)。村長が会長を務める精道村教化団体連合会には、精道村青年団、女子青年団、婦人会、教育会の9団体が加入していた。工費7600余円から募金3000円を差し引いた残額4600円は誰が醵出したのかは分からない。筆者は、差額を提供したのは幾太ではないかと推測している。
★斎藤幾太の華麗なるファミリー
斎藤幾太の父久原庄三郎(1840~1908)は、山口県の酒造家で、幾太は3人兄弟の長男である。次男田村市郎は神戸市天王谷に閑居し、三男久原房之助(1869~1965)は衆議院議員、逓信大臣、久原鉱業の社長である。久原鉱業は日立製作所の母体でもある。日立製作所は、1910年に久原鉱業所日立鉱山付属の修理工場として発足した。幾太は、元山口県令(初代)中野悟一の養子になり、中野家の旧姓の斎藤姓を名乗った。
幾太の叔父・藤田伝三郎(1841~1912)は、井上馨の支援を得て大阪で藤田組を起した。藤田組は、西南戦争で大阪・広島・熊本の用達商人として、軍需品納入、軍夫の提供で巨利を得て、後に大阪商法会議所会頭に就任し、大阪実業界の重鎮となった。
藤田と中野に関する興味深いエピソードがある。
西南戦争の際、「軍需の充足を図るために藤田組が偽札を発行したことが其頃の政治上、社会上の重大問題となり藤田組の興廃にも関わる大事件であった。それを中野悟一氏が実を捧げて単身自分の責任として引被り、中ノ島の自邸で鉄砲腹をして贖罪したので、流石の大事件も藤田組は勿論誰れにも疵が付かずに落着した。藤田伝三郎氏は中野氏の此犠牲的義挙を徳とし大いに酬うる処があったが、氏には男の後継がないので」「幾太氏を迎えて中野の後を継がしめ本姓の斎藤を称せしめ」た(生田沙隅「芦屋の二巨人~斎藤幾多-白洲文平~」(『芦屋市政要覧』昭和25年)所収。原文のママ)。
中野悟一(旧名・斎藤辰吉、1842~1883)は、戊辰戦争を幕府側で戦い、函館で政府軍に降伏し、榎本武揚らと共に東京で投獄された。明治3年、釈放された斎藤は従兄の中野家の籍に入り中野悟一と改名した。中野は、井上馨の推挙で新政府に登用され初代山口県令となった。明治8年、県令を辞して実業界に入った中野は、西南戦争で藤田と共に巨利を得て、財界の大物として活躍したが、明治16年9月、自宅で猟銃自殺した。
★打出夜学校 幾太は教育面でも地元のために尽力した。明治38年、打出観音堂で夜学校を開いた。生徒が増加して施設が手狭になったため、明治41年、自邸の敷地に新たに学舎を立てた。対象は「打出村在住ノ青年ニシテ、小学教育ヲ終ワリタルモノ」で、満25歳まで夜学校で勉強をさせた(『新修芦屋市史』昭和61年)。