2012年8月31日金曜日

斎藤幾太が芦屋大楠公戦跡碑の土地を寄付 (「湊川神社物語」『セルポート』2012.9.11号)

『セルポート』2012911日号(連載通算第420号)
「なんこうさん物語~湊川神社から見た神戸の近現代~(第2部)」第88
                  芦屋・大楠公戦跡碑

★大楠公戦跡碑建立募金  土地(130坪)は斎藤幾太(18591938)提供し、建立費は住民募金7600円であることはすでに書いた。
 読者の芦屋市在住・若林伸和様が、「募金額は3000円」と教えて下さった。精道村村長の紙谷文次が「教化三団体の協力を求め」「三千円の募金を得て昭和十年二月十一日」に記念碑が建立された(今泉三郎『芦屋物語』(昭和48年)。村長が会長を務める精道村教化団体連合会には、精道村青年団、女子青年団、婦人会、教育会の9団体が加入していた。
 工費7600余円から募金3000円を差し引いた残額4600円は誰が醵出したのかは分からない。筆者は、差額を提供したのは幾太ではないかと推測している。

★斎藤幾太の華麗なるファミリー
 斎藤幾太の父久原庄三郎(18401908)は、山口県の酒造家で、幾太は3人兄弟の長男である。次男田村市郎は神戸市天王谷に閑居し、三男久原房之助(18691965)は衆議院議員、逓信大臣、久原鉱業の社長である。久原鉱業は日立製作所の母体でもある。日立製作所は、1910年に久原鉱業所日立鉱山付属の修理工場として発足した。
 幾太は、元山口県令(初代)中野悟一の養子になり、中野家の旧姓の斎藤姓を名乗った。
 幾太の叔父・藤田伝三郎(18411912)は、井上馨の支援を得て大阪で藤田組を起した。藤田組は、西南戦争で大阪・広島・熊本の用達商人として、軍需品納入、軍夫の提供で巨利を得て、後に大阪商法会議所会頭に就任し、大阪実業界の重鎮となった。
 藤田と中野に関する興味深いエピソードがある。
 西南戦争の際、「軍需の充足を図るために藤田組が偽札を発行したことが其頃の政治上、社会上の重大問題となり藤田組の興廃にも関わる大事件であった。それを中野悟一氏が実を捧げて単身自分の責任として引被り、中ノ島の自邸で鉄砲腹をして贖罪したので、流石の大事件も藤田組は勿論誰れにも疵が付かずに落着した。藤田伝三郎氏は中野氏の此犠牲的義挙を徳とし大いに酬うる処があったが、氏には男の後継がないので」「幾太氏を迎えて中野の後を継がしめ本姓の斎藤を称せしめ」た(生田沙隅「芦屋の二巨人~斎藤幾多-白洲文平~」(『芦屋市政要覧』昭和25年)所収。原文のママ)。
 中野悟一(旧名・斎藤辰吉、18421883)は、戊辰戦争を幕府側で戦い、函館で政府軍に降伏し、榎本武揚らと共に東京で投獄された。明治3年、釈放された斎藤は従兄の中野家の籍に入り中野悟一と改名した。中野は、井上馨の推挙で新政府に登用され初代山口県令となった。明治8年、県令を辞して実業界に入った中野は、西南戦争で藤田と共に巨利を得て、財界の大物として活躍したが、明治169月、自宅で猟銃自殺した。

★打出夜学校  幾太は教育面でも地元のために尽力した。明治38年、打出観音堂で夜学校を開いた。生徒が増加して施設が手狭になったため、明治41年、自邸の敷地に新たに学舎を立てた。対象は「打出村在住ノ青年ニシテ、小学教育ヲ終ワリタルモノ」で、満25歳まで夜学校で勉強をさせた(『新修芦屋市史』昭和61年)。

2012年8月28日火曜日

歴代神戸市長の群像 国際都市神戸を築き上げてきた男たち (於:KCC) 神戸学講座


テーマ:歴代神戸市長の群像と業績
講師 :楠本利夫
 
(於:神戸新聞文化センター 078-265-1100 (http:/k-cc.jp/)
 
    第1回(10.22):神戸開港から神戸市発足まで
    2回(11.26):第1回神戸市長選挙
      3回(12.24):明治の市長たち
      4回( 1.28):大正の市長たち
      5回( 2.25):昭和戦前の市長たち
      6回( 3.25):昭和戦後の市長たち

 講義方法:講師オリジナルの神戸近現代史年表を配布し、毎回、パワーポイントを使用して、受講生との対話を重視しながら歴代市長の群像と業績を分かりやすく解説する。
 あわせて、神戸学検定受験のための基礎知識を習得できるようにする。

2012年8月20日月曜日

なぜ芦屋に大楠公戦跡碑が? (「湊川神社物語」『セルポート』2012.9.1号)

『セルポート』201291日号(連載通算第419号)
「なんこうさん物語~湊川神社から見た神戸の近現代~(第2部)」第87

芦屋・大楠公戦跡碑

★精道村教化団体連合会  大楠公六百年祭(昭和10年)に際して「精道村教化団体連合会」が大楠公戦跡碑を建立した。
 連合会の目的は「社会教育ニ関スル活動ヲシテ相互強化セシムルヤウ務メ」ることであり、精道村青年団、女子青年団、婦人会、教育会等9団体が加盟していた。会長は精道村村長である(『新修芦屋市史 資料編』)。

★斎藤幾太の胸像  大楠公戦跡碑の土地を提供したのは斎藤幾太である。境内に建立されていた幾太の胸像が、第2次大戦中の金属供出で取り壊され、現在は台座だけが残っていると前号で書いた。大戦中の金属供出で、渋谷駅前の忠犬ハチ公像、兵庫能福寺の大仏、神戸大倉山の伊藤博文の銅像なども取り壊されたので、筆者は、幾太の銅像も戦時中に供出されたと思いこんでいた。
 今年8月中旬、「神戸深江生活文化史料館」の藤川祐作研究員から、1枚の手書き内部記録コピーを見せていただいた。外部の照会者からの照会内容と、それに対する史料館の回答のメモである。その照会は幾太の銅像が戦後まであった可能性を示唆するものであった
 昭和57626日、史料館が、西宮市苦楽園在住の女性(記録には実名あり。当時88歳)に所用で電話をかけたとき、彼女から次の質問があった。「楠町の大楠公戦跡碑の敷地内に建てられていた斎藤幾太の胸像が3年ほど前には現存していた。それが見られないのはどうなったのか」。
 電話での応答は昭和57年であるので、「3年ほど前には現存していた」とすれば、昭和54年頃まで胸像があったことになる。史料館は、芦屋市緑地公園課、経済課、観光協会、生活文化課などに問い合わせたが、事実は不明であった。
 次の3つの可能性が考えられる。第1は、胸像は戦時中に供出されなかったが、戦後、何者かが撤去した。第2は、胸像は戦時中に撤去されたが、戦後、再び胸像が建立され、それを何者かが撤去した。第3の可能性は、この女性の勘違いである。
 国道2号線沿いのひと目につく戦跡跡碑であるので、上記1,2のケースなら、当然、近隣の住民などの証人がいるはずである。電話でのやりとりの時、彼女は88歳であったので、彼女の記憶違いの可能性は否定できないと筆者は考えている。

★神戸深江生活文化史料館  神戸深江生活文化史料館(大国正美館長)は、1981年に深江財産区が設立した。史料館は「旧本庄村の史誌の編纂過程で、深江で古くから偉業を営んできた深山家をはじめ、多くの有志の方々から寄贈された文献資料、生活資料を保存し、展示」している。旧本庄村は、昭和25年に神戸市と合併して東灘区の一部となった。史料館は土日のみ開館している。

2012年8月5日日曜日

芦屋精道村 斎藤幾太(「湊川神社物語」『セルポート』2012.8.11号 )


『セルポート』2012811日号(連載通算第418号)
「なんこうさん物語~湊川神社から見た神戸の近現代~(第2部)」第86
          
          芦屋・大楠公戦跡碑

★精道村  「大楠公六百年大祭」記念事業として「精道村教化連合会」が「大楠公戦跡碑」を建立した。土地(130坪)を提供したのは打出村の斎藤幾太である。
打出村は、明治22年の市制町村制施行に伴い、芦屋村、三条村、津地村と合併して精道村となった。昭和151110日、精道村は、全国173番目の市・芦屋市になった。
★斎藤幾太 戦跡碑建立のため土地を気前よく提供した斎藤幾太(18591938)とはどのような人物か。細川道草『芦屋郷土誌』(昭和38年)から幾太の生きざまを概観しよう。
幾太は叔父の藤田伝三郎が経営する藤田組の役員をしていたが、幾太の厳格な性格を社員が嫌がり社務が滞ることがあったため、若くして隠居させられることとなった。隠居場所は、打出村字堂である。国鉄西宮駅から十数町も離れた不便な場所である。ここが、隠居場所に選ばれたのは、幾太が隠居後、会社に顔を出しにくくするためである。明治33年の精道村は戸数500戸の寒村であった。阪神電車(明治38年開通)も、阪急電車(大正9年開通)もまだ開通していない。
幾太は打出で悠々自適の生活を営んだ。毎朝、馬に乗って付近の散歩を楽しんだ。痩躯で上下に長いヒゲを蓄えた幾太は「威容自ら人を服せしむるものがあった。資性温厚陰徳を好み、博愛の情に富み、私財を投じて本村(精道村、筆者)の発展事業に尽くした功績はまことに大きい」(上掲書)。幾太は、村の不就学児童を集めて自宅に夜学校を開き、貧困者には毎月米を与えたので「打出の殿様」とよばれた。
★芸術愛好家・斎藤幾太  幾太は俳句を好み「紫水庵砂明」と号した。京都の花ノ本聴秋宗匠を師とし、毎月、双葉会という句会を自邸で開き自ら撰者となった。幾太は茶道にも造詣が深く、自邸で茶会を催した。
幾太の古美術収集も半端ではない。「インターネット版「奥の細道文学館」」に、幾太の名が出ている。『良本』と呼ばれる『おくのほそ道』成立までの推敲過程を伝える重要な資料が、曽良の死後、故郷上諏訪の河西周徳(曽良の甥)に随行日記とともに伝えられていたが、その後、「古美術収集家の斎藤幾太」などに伝わり、現在、随行日記とともに天理大学附属天理図書館錦屋文庫に所蔵されている。
幾太は、陶芸にも興味を持ち、琴浦焼の創始者和田九十郎正隆の協力の下、「お庭焼」として「打出焼」を創窯し、番頭坂口庄蔵(号・砂山)に制作させた。幾太が、打出焼で作った棺桶に入って生前葬を営んだエピソードも伝えられている(藤川祐作「打出焼の歴史」(『生活文化史』神戸深江生活文化資料館、2009.3.31号)。
★幾太の胸像  昭和1210月、精道村教化連合会は幾太の功績をたたえ、大楠公戦跡碑の境内に、幾太の胸像を建立した。除幕式典で、幾太は一場の所懐を述べ、令嬢利子が除幕した。惜しいことに、この胸像は第二次大戦中に軍に供出され、現在は礎石が残っているだけである。