私の神戸近現代史案内(通算603回)
「ラフカディオ・ハーンの神戸」(1)
ブログ再開
◆ブログ連載再開 「神戸近現代史案内」のブログ掲載は、2017年2月27日を最後に中断していた。続けて読んでくださっていた方には申し訳ないと思いつつも、時間が取りにくくなっていたことを理由にブログにアップしなかった筆者の怠慢を反省している。
◆行政情報紙『セルポート』 この連載は、筆者が行政情報紙『セルポート』(月3回発行、兵庫県・神戸市幹部等対象)に、1999年12月1日号から毎号連載してきた記事を、同紙読者以外にも広く読んでいただきたいと思い、2013年12月6日からブログにアップしてきたものである。
◆海外移住基地神戸 もともと『セルポート』に連載を始めた目的は、筆者たちが市民運動で推進していた「神戸海外移住者顕彰事業」を宣伝するためである。
かつて神戸はわが国を代表する海外移住基地であった。明治41年4月28日に第1回ブラジル移民船・笠戸丸が神戸を出航し、昭和3年3月には我が国初の移住者支援施設である国立神戸移民収容所が開所した。石川達三は、昭和5年に移民収容所を経由して神戸港から大阪商船の移民船らぷらた丸でブラジルに渡航し、その体験をもとにした小説「蒼氓」で、昭和10年に第1回芥川賞を受賞した。
移民収容所は、その後、神戸移住教養所、大東亜要員錬成所と改称し、戦後は、昭和27年の海外移住事業再開に伴い神戸海外移住斡旋所として再開し、その後、神戸海外移住センターと名を変え、昭和46年にその使命を終えた。平成7年の阪神淡路大震災ではこの建物は被害を受けなかった。
◆神戸海外移住者顕彰事業 筆者は、昭和30年代後半に、神戸港第4突堤から出港する移民船の盛大な見送り風景を見て感激したことがある。
筆者は、1999年から、神戸の海外移住の歴史を後世に残したいと考えて、知人たちと共に「神戸海外移住者顕彰事業実行委員会」を立ち上げ、市民運動を展開した。運動等を始めると思いがけない意外な事実に遭遇した。それは、当時の神戸では「移民は暗い。移住者の家族は身内に移住者がいることを知られたくない。暗いイメージは神戸にそぐわない」との空気が蔓延していたことである。
それでも、四面楚歌、徒手空拳で始めたこの運動は、ブラジルをはじめとする海外日系人の共感を呼び、世界中から寄せられた浄財で、2001年にメリケンパークに海外移住者像を建立した。
旧移民収容所は、神戸市が「海外移住と文化の交流センター」として整備して生れ変わった。センターと移住記念碑を結ぶ「移住坂」を歩く観光客も増えた。海外移住3点セットは神戸の観光施設として定着し、神戸が海外日系人の心の故郷になっている。
神戸発世界行の移住者を称えるこの市民運動の記録については、拙著『移住坂~神戸海外移住史案内~』セルポート、2004年)、黒田公男『日本とブラジル』神戸新聞総合出版センター、2014年)を参照されたい。
◆『セルポート』連載 タイトルを「移住坂」と名付けた『セルポート』への連載に続いて神戸近現代史の連載を続けることとした。連載タイトルは「神戸弁天浜明治天皇御用邸」「居留地百話」「明治神戸人が描いた神戸の未来構想・神戸将来の事業」「湊川神社物語」「折田年秀日記」「豪商神兵湊の魁」等である。
連載した「豪商神兵湊の魁」は、明治10年代の「絵入り神戸の商工名鑑」と位置付けられる史料の解説である。これも、大国正美・楠本利夫『明治の商店~開港・神戸のにぎわい』(神戸新聞総合出版センター、2017年)として出版した。また「明治天皇御用邸」と「神戸将来の事業」は、全面的に書き換えて、楠本利夫『増補 国際都市神戸の系譜』(公人の友社、2007年)に収録した。
◆ラフカディオ・ハーンの神戸 2017年11月21号から『セルポート』に「ラフカディオ・ハーンの神戸」の連載を開始した。ところが、2018年3月末に『セルポート』が突然終刊することになり、連載を継続できなくなったので、このブログで連載することにした。
◆引用 筆者は大学で学生に期末レポートを提出させることが多い。中には、ネットから引用してそのままレポートを完成させ、文章、画像等の引用元を明記していない学生も少なくない。筆者は、読者がこのブログから引用してくださることは歓迎する。ただし、引用する場合は、このURLとタイトル、著者名を必ず明記していただきたい。
市民運動で建立した海外移住者像(メリケンパーク)
完成(2001年)直後の写真。アプローチの敷石はかつて移住者が移民船に乗るときに歩いた新港ふ頭の敷石。向かって右手:建立の系譜と寄贈者名。銅像の彫刻は菊川晋久作、「希望の船出」の揮毫は笹山幸俊元神戸市長。