神戸今昔物語(第498号)湊川神社物語(第2部)
「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」(41)
阪神淡路大震災
◆阪神淡路大震災20年 大震災から20年が経過した。震災時、筆者は、神戸と関空を結ぶ超高速艇K-JET社の専務をしていた。K-JETの発着場は、ポートアイランド2期の航空旅客ターミナルであった。桟橋上から市街地を見ると、震災の数日後でも、あちこちで、黒い煙があがっていた。
神戸と市外を結ぶ鉄道線路も、高速道路も倒壊していた。市外へ出るには海路しかない。鉄道、道路の代替輸送手段として、メリケンパークの岸壁と大阪天保山を結ぶ臨時航路が開設された。
◆孤島ポートアイランド 神戸大橋が損壊し、ポートアイランドは完全な孤島になった。ライフラインは壊滅し、電気、上水道、ガスも使えなかった。ポートアイランドの住宅は中高層ばかりである。高齢者も多かった。停電、断水、ガスがなければ住民は生活できない。エレベータは止まっていた。
震災当日の夜、人々は島外へ避難しようとした。住民が市外へ出る手段は、K-JETだけだった。彼等は、最小限の荷物とペットを抱えて、真っ暗な階段を、手すりを頼りに下りた。道路は、液状化現象で梅雨時の田圃のようであった。街灯も消えて真っ暗である。彼等はその中を歩いて船着き場に向かった。
船客ターミナル玄関で待機していた筆者に、闇の中から、ぽつりぽつりと現れてゆっくり近づいてくる黒い人影が見えた。ターミナルには予備の自家発電装置で照明があった。到着した人たちは、一様に、ひざまで泥水に浸かっていた。高齢者も多かった。彼等は、その夜、泥に汚れた待合室ロビーの床に新聞紙や毛布を敷き、その上で一夜を明かした。凍てつくような寒い日であった。暖房はない。水洗トイレの汚物が断水で流れなかった。翌朝、係員総出で、山盛りの汚物を海水で流した。
震災翌日、ポートアイランドにあるホテルの宿泊客約220人を関空まで輸送した。地震を初めて経験した外国人客の顔は一様にこわばっていた。
フランスの災害救助隊も救助犬を連れてK-JETで神戸に来た。
◆燃料輸送 4隻の高速艇を関空航路と天保山航路にそれぞれ2隻投入した。地下タンクに保管していた燃料はすぐになくなった。燃料がなければ運航できない。県警に依頼して、大阪からタンクローリー車をパトカーに先導してもらい燃料を運んだ。
◆ごみ焼却場稼働 市街地とポートアイランドを結ぶ鉄製の仮橋が完成した。ポートアイランド2期の東南部に焼却場が建設され、市街地から出るがれきを24時間体制で焼却していた。高い煙突から、白い煙が絶え間なく吐き出されていた。
◆神戸村から国際港湾都市へ 1868年の開港は神戸村を劇的に変えた。各国は外国人居留地に領事館を開き、欧米の貿易商が商館を開設した。国内各地からも人々が移住してきた。神戸は、我が国を代表する国際港湾都市として発展してきた。その神戸が地震で一瞬にして壊滅したのである。
あれから20年、神戸は美しい街に生まれ変わった。
※ 本稿から引用する場合は、必ず、当ブログからの引用と明記してください。