2012年7月30日月曜日

大楠公六百年大祭 (「湊川神社物語」『セルポート』2012.8.1号) 

『セルポート』2012年8月1日号(連載通算第417号)
「なんこうさん物語~湊川神社から見た神戸の近現代~(第2部)」第85話
                                                         芦屋・大楠公戦跡碑
★大沸次郎、武者小路実篤  
湊川合戦600年記念「大楠公六百年大祭」は、国民的イベントであった。神戸では神戸新聞社が湊川公園に「大楠公騎馬像」を建立した。神戸だけの行事ではない。
大沸次郎『楠木正成 大楠公』も「大楠公六百年祭記念作品」として「昭和十一年六月、改造社より刊行された」(福島行一、徳間文庫版(1990年)解説)。
武者小路実篤は、戯曲『楠木正成』(坂上書院、昭和17年)を上梓した。その「序」で、武者小路は、「この作品の価値は後世の人に任せたい。七生報国の思想も、大東亜戰争が始まり、米国のある馬鹿が日本を占領して見せるやうなことを言ふのを聞くと、七生報国の決心も強まるのを覺える」と書いている。「七生報国」とは、湊川の合戦で敗れた正成が弟正季と刺し違える前に、正季に何か望みがあるかと尋ねた時、正季が「七度生れかへって朝敵を滅ぼし、叡慮をおやすめしたく思ひます」(武者小路『上掲書』)と答えた言葉である。
「精道村教化団体連合会」が「大楠公戦跡碑」を建立した。土地130坪を提供したのは、打出村(現芦屋市)在住の斎藤幾太である。
★斎藤幾太  
斎藤幾太(1859~1838)は、酒造家久原正三郎の長男として長門国阿武郡で生まれた。幾太の次弟田村一郎は「神戸市天王谷に閑居し」、末弟久原房之助は、後の久原鉱業社長、逓信大臣である。幾太の妹は「本山彦一氏に嫁いでいたが他界した」(細川道草編著『芦屋郷土誌』芦屋史談会)。本山彦一(1853~1932、熊本県生まれ)は福沢諭吉門下生で、兵庫県庁を経て『大阪新報』『時事新報』に勤め、大阪の藤田組支配人として活躍し、『大阪毎日新聞』社長として『毎日新聞』が全国紙として発展する礎を作った(三省堂『大辞林』、『美術人名事典』思文閣)。
幾太は長男であったが「故あって」元山口県令中野梧一の養嗣子となり、中野家の旧姓斎藤を名乗った(細川、上掲書)。中野梧一(旧名、斎藤辰吉。1842~1883)は、山口県初代県令を経て、明治9年1月に藤田組に入社した。藤田組を設立したのは、幾太の叔父(父の弟)の藤田伝三郎(1841~1912)である。
★政商藤田伝三郎  
藤田伝三郎(長門国阿武郡生)は、郷塾で漢学を修め、16歳で分家を再興して酒造業を営んだ。維新後、上京した伝三郎は、井上馨が創設した先取会社の頭取となり、翌年、大阪で藤田組を起し、西南戦争で大阪・広島・熊本鎮台の御用達証人として巨利を得た。その後、第十四国立銀行・大阪堂島米商会所・山陽鉄道会社など多方面の事業に関係し、明治18年に大阪商法会議所会頭に就任、大阪実業界の重鎮となった。藤田組の事業として、児島湾開墾、台湾森林開発をはじめ多数の鉱山の経営がある。(『明治維新人名辞典』芳川弘文堂)。
幾太は前半生をこの藤田組幹部として働いた。